材料の名前
和名は「イ」(藺)。一文字の標準和名としては日本最短として知られる。一般的には「イグサ」「藺草」「井草」「イ草」と表記されることが多い。別名として「トウシンソウ(燈芯草)」がある。
学名は Juncus decipiens(ジュンカス・デキピエンス)。属名の Juncus はラテン語で「結ぶ」を意味し、古くからこの植物の茎が紐として使われてきたことに由来する。英語では “rush”(ラッシュ)、もしくは “soft rush” と呼ばれ、中国語では「灯心草(dēngxīncǎo)」と記される。韓国語では「골풀(ゴルプル)」にあたる。
分類上は、単子葉植物イグサ科イグサ属の多年草で、イネ目に含まれる。畳表の原材料として日本人の暮らしに深く根ざしてきた植物だが、近年は食用としても注目を集め、お菓子やスイーツの材料に転じつつある。
特徴
イグサは湿地や浅い水中に根を張って育つ多年草である。地下茎が泥の中を短く這い、そこから細い円柱状の花茎を多数まっすぐに伸ばす。草丈は栽培品種で60〜150センチほどに達する。葉は基部の短い鞘状に退化しており、外見上はほとんど確認できない。花茎の表面はつやつやとした緑色で滑らかな質感を持つ。
お菓子の原材料として使われるのは、この花茎を乾燥・粉砕して微粉末(パウダー)にしたものである。見た目は抹茶に似た鮮やかな緑色で、ほのかに甘い独特の香りがある。抹茶のような強い苦味はなく、やさしい風味が特徴だ。
栄養面で際立っているのが食物繊維の含有量の多さである。北九州市立大学の森田洋教授(農学博士)の研究によれば、イグサには無水物換算で100グラムあたり63グラム以上の食物繊維が含まれている。これは野菜類のなかでもトップクラスの数値であり、そのうち約59グラムが不溶性食物繊維、約4グラムが水溶性食物繊維とされる。イナダ有限会社が販売する「藺草ファイバーパウダー」の栄養成分表示では、100グラムあたり食物繊維77.6グラム、エネルギー236キロカロリー、たんぱく質7.8グラム、脂質2.7グラム、糖質6.3グラム、葉酸79マイクログラムという数値が記載されている。
食物繊維のほかにも、ビタミン類、ミネラル、ポリフェノール、クロロフィル(葉緑素)、アミノ酸など、37種類もの栄養成分が含まれるとされ、ノンカフェインであることから妊婦にも利用しやすい点が重宝されている。
森田教授の研究では、イグサが腸管出血性大腸菌O157やサルモネラ菌、黄色ブドウ球菌といった食中毒菌に対して抗菌作用を持つことも確認されている。活性酸素を消去する能力があることも報告されており、まさに「敷いても食べても健康な天然素材」という評価が与えられるようになった。
用途
お菓子づくりにおいて、イグサは粉末(パウダー)の状態で利用される場面がほとんどである。抹茶と同じような感覚で、生地に練り込んだり、仕上げに振りかけたりといった使い方が一般的だ。
具体的には、クッキーやパウンドケーキの生地に主原料の1〜2パーセント程度を混ぜ込む方法が推奨されている。鮮やかな緑色が焼成後も残るため、抹茶の代替としてだけでなく、和と洋を融合させた創作スイーツの素材としても活用されている。
わらび餅にイグサパウダーを加えると、独特のやわらかな緑色ととろりとした食感が生まれ、岡山県早島町の菓子店「彩の里 花みづき」では、看板商品「元祖いぐさのわらび餅」として販売されている。チョコレート、プリン(クリームブリュレ)、マフィン、ソフトクリーム、アイスクリームなど、イグサを取り入れた商品は約40種類にも及ぶとされる。
お菓子以外では、天ぷら粉や唐揚げ粉に少量混ぜて色鮮やかに仕上げる調理法、お茶や牛乳に溶かして健康飲料として飲む方法もある。ちまきを笹で包む際に結ぶ紐として、イグサの茎がそのまま使われることもあり、和菓子の世界では素材としてだけでなく、副資材としても古くから関わりが深い。
主な原産国と産地
イグサの原産地はインドとされ、シルクロードを経て朝鮮半島に渡り、やがて日本に伝来したと考えられている。自生地としては日本、中国、朝鮮半島、台湾など東アジアの温帯地域に広く分布しており、種としてはヨーロッパや北アメリカにも近縁の基本変種が見られる。
日本国内で圧倒的な存在感を示すのが熊本県八代地方だ。国産畳表の8〜9割が八代産であり、食用イグサの栽培もこの地域が中心を担っている。食用としての栽培では、化学合成農薬や化学肥料を使わない自然農法が採用されるケースが多い。
岡山県も古くからイグサの産地として知られ、都窪郡早島町は「いぐさの町」として地域おこしに取り組んでいる。食用向けのスイーツ開発が盛んなのもこの地域である。そのほか石川県、広島県、福岡県、佐賀県、大分県、高知県でも栽培が行われてきたが、安価な中国産畳表の輸入増加と住宅の洋風化によって国内のイグサ栽培面積は減少傾向にある。
選び方とポイント
お菓子づくりに使うイグサパウダーを選ぶ際に、まず確認したいのは「食用栽培されたイグサかどうか」という点だ。畳表用のイグサには農薬が使われることがあり、食用とは栽培方法が根本的に異なる。食用イグサとして出荷されている製品は、栽培時に化学合成農薬を使用していない旨が明記されているものがほとんどなので、パッケージの表示を必ず確認してほしい。
原材料が「いぐさ(熊本県産)」のように産地が明記されている製品は信頼度が高い。添加物や保存料が一切入っていない「いぐさ100パーセント」の粉末が、製菓用途としてはもっとも使いやすい。
色と香りも品質の目安になる。良質なイグサパウダーは鮮やかな深緑色をしており、封を開けた瞬間にほのかな甘い草の香りが漂う。茶色がかっているものや香りが弱いものは、原料の鮮度が落ちている可能性がある。
保存は冷蔵庫が推奨される。粉末の比重がきわめて軽いため、開封時に飛び散りやすい点にも注意が必要だ。使用量の目安は生地の主原料に対して1〜2パーセントと少量で済むため、100グラム入りのパウダー1袋でかなりの回数のお菓子づくりに対応できる。
メジャーな製品とメーカー名
食用イグサ製品の代表格は、熊本県八代市に本社を置くイナダ有限会社の商品群である。同社は食用イグサのパイオニア的存在で、自社農園で無農薬栽培したイグサを加工・販売している。主力製品の「藺草ファイバーパウダー」(100グラム入り)は、製菓・調理の両方に使える汎用パウダーとして根強い人気がある。ほかにも「たたみアイス」(いぐさミルク味と玄米味の二層アイス)、いぐさ胡麻、いぐさ粉末茶「結い草」など約40種類を展開しており、通信販売のほか八代市内の直売所やふるさと納税返礼品としても入手できる。テレビ番組「ザ!鉄腕!DASH!!」(日本テレビ)や「あさチャン!」(TBS)、「羽鳥慎一 モーニングショー」(テレビ朝日)など多くのメディアで紹介された実績がある。
岡山県早島町の「彩の里 花みづき」は、いぐさスイーツの専門店として知られる。看板の「元祖いぐさのわらび餅」をはじめ、いぐさのパウンドケーキ、いぐさチョコレート、いぐさソフトクリームなど多彩な商品を手がけている。2024年には同店の「岡山フルーツぱふぇ大福」が岡山ブランド「晴れのめぐみ」最優秀賞を受賞し、全国的にも注目度が高まった。
熊本菓房(くまもと菓房)は、熊本県で創業した菓子メーカーで、「いぐさおからクッキー」を商品化している。黒糖、アーモンド、紅茶、黒ごまの4種類がセットになっており、豆乳おからクッキーにイグサパウダーを配合したヘルシー志向の焼き菓子として販売されている。
熊本県八代市の菓子メーカーが手がける「八代風菓サブレ」は、い草を含む熊本県産の農産物5種を使った詰め合わせクッキーで、ふるさと納税の返礼品としても人気がある。
福岡教育大学の学生が考案し、商品化された「Juncus Cookie(ジュンクスクッキー)」は、食用に栽培された熊本県産イグサの粉末を生地に練り込んだクッキーで、産学連携の成功例として話題を集めた。
歴史・由来
イグサと日本人の関わりは千年以上の歴史を持つ。もともと畳表や花筵(はなむしろ)の材料として重用されてきた植物であり、古代には茎の髄(ずい)を行灯(あんどん)の灯芯として使ったことから「灯芯草(トウシンソウ)」という別名が定着した。和蝋燭の芯の素材としては現在も使われ続けている。
熊本県におけるイグサ栽培の歴史は、1505年(永正2年)にさかのぼる。八代市千丁町太牟田にあった上土城の城主、岩崎主馬守忠久公が領内の古閑・渕前でイグサの栽培を奨励したのが始まりとされ、2005年には栽培開始500周年の節目を迎えた。岩崎主馬守忠久公は「い草の神様」として岩崎神社に祀られており、地元では今なお深く敬われている。
江戸時代になると、灯芯用のイグサ栽培が各地に広がった。やがて畳文化の普及とともに、畳表用の品種改良と産地形成が進み、熊本県八代地方は国内最大の産地としての地位を確立していく。
食用としてのイグサの歴史は比較的新しい。転機となったのは、北九州市立大学の森田洋教授による一連の研究だ。イグサが豊富な食物繊維を含むこと、食中毒菌に対する抗菌作用を持つこと、活性酸素を消去する力があることなどが科学的に明らかにされ、イグサの安全性と栄養価の高さが証明された。この研究成果を受けて、イナダ有限会社が無農薬自然農法による食用イグサの栽培を開始し、粉末やアイスクリームなどの食品開発に乗り出したことが、食用イグサ市場の出発点となっている。
もうひとつの背景には、畳需要の減少がある。住宅の洋風化や安価な中国産畳表の流入によって、国産イグサの生産量は大幅に縮小した。2007年以降、国産畳表の市場シェアは全体の約20パーセントにまで落ち込んでいる。こうした厳しい状況のなかで、「畳だけに頼らない新しい用途」を開拓する動きが生まれ、食品分野への進出がその柱となった。
漢方の世界では、イグサ(灯芯草)は古くから利尿作用や不眠症の改善に効果があるとされてきた。切り傷や打撲、水腫の薬としても使われた記録が残っている。中国の本草学でも灯心草は生薬のひとつとして記載されており、東アジアの伝統医学における長い利用史がある。こうした薬草としての伝統的な知見が、現代の食品科学研究によって裏付けられた形になっているのは興味深い。
畳の香りがもたらすリラックス効果についても、熊本県農業研究センターと九州大学の共同研究で確認されている。この穏やかな香りは、イグサパウダーを使ったお菓子にも引き継がれるため、食べた瞬間にどこか懐かしさを覚えるような風味体験をもたらしてくれる。
