材料の名前
日本語では「和三盆」または「和三盆糖(わさんぼんとう)」と呼ばれる。徳島県産のものは「阿波和三盆糖」、香川県産のものは「讃岐和三盆糖」と、それぞれ産地名を冠して区別される場合もある。英語圏では「Wasanbon」あるいは「Wasanbon sugar」とそのまま表記されることが多く、説明的に「fine-grained Japanese sugar」と訳されることもある。フランス語やドイツ語など他の欧州言語でも固有名詞としてそのまま「Wasanbon」が用いられるのが一般的だ。「三温糖(さんおんとう)」と名前が似ているため混同されがちだが、三温糖は上白糖の製造過程で生じる蜜を煮詰めて作る砂糖であり、和三盆とはまったく別の製品である。
特徴
和三盆は、砂糖の中でも「含蜜糖(がんみつとう)」に分類される。含蜜糖とは、糖蜜を完全に分離せず、ミネラルや風味成分が一部残った状態の砂糖を指す。黒砂糖も同じ含蜜糖だが、和三盆は手作業による「研ぎ」と「押し舟」を使った圧搾によって糖蜜を丁寧に抜いており、黒砂糖よりもはるかに繊細な仕上がりになる。
見た目は淡いクリーム色で、粒子がきわめて細かい。指先で触れるとさらさらと崩れ、粉砂糖に近い感触がある。口に含むと、すっと溶けて消えるような口溶けの良さがあり、上白糖やグラニュー糖にはない独特の風味が広がる。甘さはしっかりしているものの後を引かず、すっきりと切れるのが大きな魅力だ。ほのかに感じるコクや香りは、原料の竹糖に由来するサトウキビ本来の風味と、わずかに残る糖蜜成分がもたらしている。
讃岐和三盆と阿波和三盆とでは、研ぎの回数や分蜜の度合いが異なるため、色の白さや風味に違いがある。一般に讃岐和三盆のほうが研ぎの回数が多く色が白い傾向にあり、阿波和三盆のほうが糖蜜のコクをやや多く残しているとされる。ただし製糖所ごとの差も大きいため、一概に産地だけで味わいを語ることはできない。
用途
和三盆の代表的な用途は、やはり和菓子だ。高級な干菓子(ひがし)では、和三盆糖そのものを木型で押し固めた「打ちもの」が知られている。茶道の席で供される四季折々の干菓子は、和三盆がなければ成り立たないといっても過言ではない。ほかにも、餡(あん)に加えて上品な甘さを引き出したり、求肥(ぎゅうひ)や餅菓子にまぶしたり、カステラの生地に混ぜたりと、和菓子全般で幅広く使われている。
近年は洋菓子の分野でも注目されている。ロールケーキやシフォンケーキの生地に和三盆糖を使うと、しっとりした食感ときめ細やかな甘さが生まれる。ブランマンジェやプリンなど、素材の味がストレートに出るデザートとも相性が良い。クッキー生地に混ぜ込めば、ほろりとほどけるような食感と上品な後味を演出できる。
菓子以外では、煮物の味付けに少量加えて素材の旨みを引き立てたり、蕎麦つゆや寿司飯の隠し味に用いたりする料理人もいる。コーヒーや紅茶に溶かして楽しむ人も増えており、一般的な砂糖とは異なる奥行きのある甘さが支持されている。
主な原産国と産地
和三盆は日本固有の砂糖であり、現在、生産されているのは香川県と徳島県のみだ。海外で生産されている事実は確認されていない。
原料となる竹糖(ちくとう)の栽培地は、香川県と徳島県の県境を走る阿讃山脈(あさんさんみゃく)の南北山麓に集中している。香川県側では東かがわ市やさぬき市、徳島県側では板野郡上板町・板野町・阿波市が主な産地だ。竹糖は温帯での生育に適した在来品種のサトウキビで、沖縄などで栽培される一般的なサトウキビと比べると草丈が低く茎も細い。収穫量が少ないうえ、機械化が難しいことから、栽培農家の高齢化や後継者不足が課題となっている。
なお、沖縄でも「和三盆」と名乗る商品が一部流通しているが、これは研ぎや押し舟による分蜜ではなく、黒糖を粉砕・攪拌して色味を白くしたもので、四国の和三盆糖とは製法が根本的に異なる。
選び方のポイント
和三盆を選ぶ際にまず確認したいのは、原材料の表示だ。竹糖100%で作られたものが本来の和三盆糖であり、原材料欄に「砂糖黍(サトウキビ)」とだけ記載されているのが望ましい。一方で、和三盆には原材料や製法に関する法的な規格が存在しないため、グラニュー糖や他品種のサトウキビを混合した製品も市場には出回っている。「白下糖」とだけ表示されている場合は、原料の内訳がわかりにくいこともあるので注意したい。
産地による風味の違いにも目を向けるとよい。讃岐和三盆は比較的あっさりとした甘さで色が白く、阿波和三盆はコクと風味がやや強い傾向がある。干菓子としてそのまま味わいたいなら、好みの風味を実際に食べ比べて選ぶのが確実だ。
粉末状の和三盆糖を製菓材料として購入する場合は、100g入りや200g入りの小袋が使い切りやすい。保存は高温多湿を避け、密閉容器に入れるのが基本だ。湿気を吸うと固まりやすくなるため、開封後は早めに使い切りたい。
価格は製糖所によって幅があるが、一般的な砂糖と比較するとかなり高価である。1kgあたり数千円から1万円台にのぼる製品もある。日常使いの砂糖として買い求めるというよりは、ここぞという場面で少量を効果的に使うのがおすすめだ。
メジャーな製品とメーカー
和三盆糖の製糖所は現在、香川県と徳島県を合わせても数えるほどしか残っていない。それぞれに歴史と個性がある。
香川県の代表格が、東かがわ市にある三谷製糖羽根さぬき本舗だ。文化元年(1804年)の創業で、高松藩から最初に製糖を許された5軒のうちの1軒にあたる。看板商品は、羽根つきの羽根を模した「羽根さぬき」で、和三盆を和紙で包んだ優雅な意匠が特徴だ。抹茶をまとわせた「茶毬(ちゃまり)」も人気が高い。創業当時の建物と道具を活かした伝統製法を守り続けている。
同じく香川県で知られるのが、ばいこう堂だ。大阪に本社を置く企業だが、東かがわ市引田に自社工場を構え、和三盆糖の製造から干菓子の販売までを一貫して手がけている。花や動物をかたどったカラフルな干菓子が幅広い層に支持されており、百貨店やスーパーなど流通経路が広いことから、和三盆の入門として手に取りやすいブランドとなっている。
徳島県では、板野郡上板町の岡田製糖所が広く知られる。阿波和三盆糖の中でも品質の安定感に定評があり、100g入りの小袋から1kg入りまで幅広く流通している。徳島県内の土産物店でも目にする機会が多い。ピンクと白の半球を合わせて和紙で包んだ干菓子は、地元の手土産として根強い人気を持つ。
同じく徳島県の服部製糖所は、元治元年(1864年)創業。竹糖の栽培から製糖、干菓子づくりまでを自社で一貫して行っている。2019年のG20大阪サミットで各国首脳に供されたのが同社の最上級品「大無類和三盆」で、100gあたり1,620円(税込)と和三盆の中でも群を抜く価格帯だ。近年は「BON COFFRET」という干菓子ブランドも展開しており、つなぎや食品添加物を使わない和三盆100%のお菓子を売りにしている。
このほか、徳島県には友江製糖所、影山製糖所、徳島産業なども和三盆の製造を行っている。香川県では山田製糖が白下糖(和三盆になる手前の段階の砂糖)を生産し、地元の瓦せんべいの原材料として供給している。
干菓子のブランドとしては、香川県の日和制作所が手がける「HIYORI」も注目されている。手彫りの菓子木型を使い、瀬戸内海の風景をモチーフにした可愛らしいデザインの干菓子は、若い世代への和三盆の浸透に一役買っている。
歴史と由来
「三盆」の名は、盆の上で砂糖を三度「研ぐ」という独自の精糖工程に由来するとされる。「和」の字は、国産(日本産)であることを意味しており、輸入砂糖と区別するために冠された。別の説として、香川県の三本松(さんぼんまつ)が砂糖の積み出し港であったことから「三盆」と呼ばれるようになったという言い伝えもあるが、製法に由来するという説が広く支持されている。
日本における砂糖の歴史をたどると、奈良時代に唐から鑑真が砂糖を持ち込んだという記録がある。しかし長い間、砂糖は薬として扱われる高価な品であり、庶民の手に届くものではなかった。江戸時代に入り、八代将軍の徳川吉宗が享保の改革の一環として全国に糖業を奨励すると、各地でサトウキビの栽培と製糖の研究が盛んになった。
讃岐(現在の香川県)での和三盆の歴史は、高松藩五代藩主・松平頼恭(まつだいらよりたか)の時代にさかのぼる。藩命を受けた医師の池田玄丈が砂糖づくりの研究を始め、その弟子である向山周慶(さきやましゅうけい)が研究を引き継いだ。向山周慶はあるとき、遍路の途中で病に倒れていた薩摩藩奄美大島出身の関良介(せきのりょうすけ)を治療し、命を救う。関良介は砂糖づくりの経験を持つ人物で、命の恩に報いるため、藩外持ち出し禁止であったサトウキビの栽培と製糖の技術を向山周慶に伝えた。こうして寛政2年(1790年)にまず黒糖の製造に成功し、寛政11年(1799年)には白砂糖の精製にこぎつけた。これが讃岐和三盆の始まりとされている。その後、文化5年(1808年)に引田の糖業家によって「押し舟」と「かい練り」の技法が編み出され、白砂糖からさらに進んだ「三盆白」が生まれた。天保11年(1840年)には石灰を用いる精製法が確立され、現在に至る和三盆の製法がほぼ完成した。
一方、阿波(現在の徳島県)では、板野郡の修験者・丸山徳弥(まるやまとくや)が安永5年(1776年)に日向国(現在の宮崎県)延岡へ渡り、サトウキビの苗を密かに持ち帰ったことが糖業の始まりとされている。徳弥は竹杖の中にサトウキビの苗を隠して運んだという逸話が伝わっている。帰国後、独力で栽培法と製糖法の研究に取り組み、寛政10年(1798年)頃には三盆糖の製造に成功したとされるが、これを裏付ける明確な史料は残っていない。徳島藩もこの新産業を積極的に奨励したため、サトウキビの栽培は藩内で急速に広がった。阿波砂糖の最盛期は天保年間から文久年間(おおよそ1830年代~1860年代)の約30年間で、サトウキビの作付面積は推定2,500ヘクタール、白砂糖の生産量は推定3,450トンに達したとされる。
讃岐と阿波では、和三盆の普及の仕方にも違いがあった。讃岐和三盆はそのほとんどが献上品として高松藩に納められたため、地元の庶民にはその存在すらあまり知られていなかったという。対照的に、阿波和三盆は貴重な特産品として諸国に売り出され、全国の和菓子文化の発展に大きく寄与した。
明治時代になると、安価な輸入砂糖が大量に流入し、国内の製糖業は急速に衰退していった。四国の和三盆もその影響を免れず、多くの製糖所が廃業した。それでも、手仕事が生む独特の風味と品格を守ろうとする製糖所が細々と技術を受け継ぎ、現代まで命脈をつないできた。和三盆が「讃岐三白(さぬきさんぱく)」── 綿・砂糖・塩 ── の一つとして語り継がれている背景には、こうした長い歴史がある。
200年以上にわたる伝統が今なお息づいている和三盆は、単なる甘味料の枠を超え、日本の食文化を象徴する存在だ。竹糖の栽培農家の減少や職人の高齢化など、課題がないわけではない。しかし、若い世代に向けたデザイン性の高い干菓子ブランドの登場や、洋菓子への応用の広がりなど、新たな挑戦も確実に進んでいる。手作業でなければ生まれない繊細な甘さと口溶けは、これからも多くの人の心をとらえ続けるだろう。
