材料の名前(日本語・外国語)
天然酵母の正式な日本語表記は「天然酵母(てんねんこうぼ)」であり、「野生酵母」と呼ばれることもあります。英語では「Wild Yeast(ワイルドイースト)」または「Natural Yeast(ナチュラルイースト)」と表記されます。フランス語では「Levain(ルヴァン)」が天然酵母を用いた発酵種全般を意味する言葉として広く使われており、フランスのパン・菓子文化と深く結びついています。イタリア語では「Lievito Naturale(リエヴィト・ナトゥラーレ)」や「Lievito Madre(リエヴィト・マードレ=母なる酵母)」と呼ばれ、パネトーネなどの伝統菓子に欠かせない存在です。ドイツ語では「Wildhefe(ヴィルトヘーフェ)」、また発酵種としては「Sauerteig(ザウアータイク=サワー種)」という名称が一般的です。
酵母の学名は「Saccharomyces cerevisiae(サッカロミケス・セレビシエ)」が代表的な種ですが、天然酵母には複数種の酵母菌や乳酸菌が共生している点が、単一菌株を純粋培養した商業用イーストとの大きな違いです。
特徴
天然酵母とは、穀物、果実、花、樹木など自然界に存在する複数種の野生酵母菌を培養して得られる発酵種の総称です。商業用のパン酵母(イースト)がパン作りに最も適した単一の酵母菌株を工業的に純粋培養しているのに対し、天然酵母は酵母菌だけでなく乳酸菌や酢酸菌など多様な微生物が共生した状態で存在しています。この複合的な菌叢(きんそう)こそが、天然酵母ならではの複雑で奥行きのある風味や香りを生み出す源泉です。
天然酵母の第一の特徴は、その香りの豊かさにあります。原料となる果実や穀物に由来するフルーティーな香り、麹に由来する甘い香り、乳酸菌が生み出すほのかな酸味のある芳香など、使用する酵母の種類によって千差万別の香りが楽しめます。商業用イースト特有の「イースト臭」が苦手な方にとっては、天然酵母の自然で穏やかな香りは大きな魅力となります。
第二の特徴は食感です。天然酵母は商業用イーストに比べて発酵力が穏やかであるため、生地の発酵に長い時間を要します。この長時間発酵により、小麦粉のタンパク質と水分がしっかりと結びつき、しっとりとした、もちもちとした独特の食感が生まれます。噛めば噛むほど味が広がる深い旨味も、長時間発酵による熟成効果のひとつです。
第三の特徴は日持ちの良さです。天然酵母のパンや菓子は、長時間発酵の過程で生地内の水分と小麦がしっかりなじむため、イーストを使用した製品に比べて乾燥が進みにくく、しっとりした状態が長続きします。「食べ頃は焼き上がりの翌日」と言われることもあるほどです。
天然酵母には大きく分けて「市販のドライタイプ」と「自家製タイプ」の2種類があります。ドライタイプは、メーカーが培養・乾燥した酵母を粉末や顆粒状に加工したもので、品質が比較的安定しており、家庭でも扱いやすいのが利点です。自家製タイプは、レーズンやリンゴなどの果実、あるいは穀物を水に漬けて自然に発酵させるもので、手間と時間はかかりますが、素材ごとに異なる個性的な風味を楽しめます。
用途
天然酵母はパン作りの印象が強い材料ですが、お菓子作りにおいても幅広い用途があります。
パン・菓子パン分野では、食パン、カンパーニュ、バゲットなどのハードブレッドから、あんぱん、クリームパン、ブリオッシュといった菓子パンまで、あらゆるタイプのパンに用いられます。とりわけ天然酵母を使ったハードブレッドは、クラスト(外皮)の香ばしさとクラム(内部)のしっとり感の対比が際立ち、愛好者の多いジャンルです。
伝統菓子では、イタリアのクリスマス菓子「パネトーネ」が天然酵母を用いた代表的なお菓子です。パネトーネは「パネトーネ種」と呼ばれるイタリア北部に伝わる特別な天然酵母(酵母菌と乳酸菌が共生した種)を使い、48時間以上にもおよぶ長時間発酵を経て焼き上げます。ドライフルーツやバターをたっぷり使ったリッチな生地がドーム型に膨らんだ姿は、イタリアの冬の風物詩です。同じくイタリアの「パンドーロ」もパネトーネ種を使った伝統的な焼き菓子として知られています。
近年では、天然酵母を焼き菓子に応用する動きも広がっています。マフィン、スコーン、パンケーキ、ワッフル、タルト、ガレットなどにベーキングパウダーの代わりに天然酵母を使うことで、ふんわりとした食感に加えて発酵由来の深い旨味と風味が加わります。酵母の発酵で生地を膨らませるため、化学膨張剤を使わない自然な製法を好む方にとっても魅力的な選択肢です。
このほか、日本独自の菓子として、酒種(さかだね)を用いたあんぱんがあります。木村屋總本店が明治時代に考案した酒種あんぱんは、米と麹から培養した酵母を用いており、ほんのりとした麹の香りと薄い皮が特徴で、天然酵母を使った菓子の日本における原点とも言える存在です。
主な原産国・産地
天然酵母は自然界のあらゆる場所に存在する微生物であり、特定の「原産国」があるわけではありません。果実の表面、穀物、花の蜜、樹皮、土壌、空気中など、地球上のいたるところに野生の酵母菌は生息しています。ただし、酵母の培養文化や製品化という観点では、地域ごとに特色があります。
日本では、お米と麹を原料とする酒種酵母の文化が古くから存在し、ホシノ天然酵母やあこ天然培養酵母といった製品は日本古来の醸造技術を応用して開発されています。白神こだま酵母は、世界自然遺産である白神山地(秋田県・青森県)の腐葉土から発見された野生酵母です。とかち野酵母は、北海道十勝に自生するエゾヤマザクラのさくらんぼから分離された酵母です。
フランスでは、小麦粉やライ麦粉と水を合わせて作るルヴァン種が伝統的に受け継がれ、「パン・オ・ルヴァン」に代表される発酵パン文化の中核を担っています。ドイツでは、ライ麦パンに不可欠なサワー種(ザウアータイク)が何世紀にもわたって継承されてきました。イタリアでは、北イタリアのコモ湖周辺で400年以上にわたり受け継がれてきたパネトーネ種が有名で、この地域特有の気候風土でしか生育できないとされる貴重な酵母と乳酸菌の共生体です。アメリカでは、19世紀のゴールドラッシュ時代から続くサンフランシスコ・サワードウが名高く、サンフランシスコ湾岸の独特な微生物環境が生み出す酸味のある風味で世界的に知られています。
選び方とポイント
天然酵母を選ぶ際には、まず自分の技量と目的に合ったタイプを見極めることが重要です。
初心者には、種起こし(生種づくり)が不要で扱いやすいドライタイプの天然酵母がおすすめです。白神こだま酵母はぬるま湯に溶かすだけで使え、発酵力も強く、仕込みから焼き上がりまで2.5〜3時間程度で完成するため、初めての天然酵母パン・菓子作りに最適です。とかち野酵母のインスタントタイプも予備発酵が不要で、通常のドライイーストに近い感覚で使用できます。
中級者以上で天然酵母らしい深い風味を追求したい方には、ホシノ天然酵母パン種やあこ天然培養酵母がおすすめです。これらは使用前に「生種起こし」と呼ばれる工程が必要で、パン種を水と合わせて25〜30℃の環境で24〜28時間程度培養する手間がかかりますが、その分、麹由来の甘い香りや深い旨味を持つ味わい豊かな製品が焼き上がります。
作りたいお菓子やパンの種類に合わせて選ぶことも大切です。食パンや菓子パンなどのソフト系には、クセが少なくふんわり仕上がるあこ天然培養酵母のストロングタイプが適しています。フランスパンやカンパーニュなどのハード系には、ホシノ天然酵母フランスパン種や丹沢酵母フランスパン種が向いています。幅広い用途で使いたい場合は、ホシノ天然酵母パン種が食パンから菓子パン、フランスパンまでオールマイティーに対応できます。
保管方法にも注意が必要です。ドライタイプの天然酵母は開封後は密封して冷蔵庫(0〜5℃)で保存し、なるべく早めに使い切るのが基本です。生種は冷蔵庫で保存し、起こしてから1週間以内に使用することが推奨されます。高温多湿の環境では発酵力が低下するため、特に夏場の管理には注意しましょう。
メジャーな製品とメーカー名
ホシノ天然酵母パン種(有限会社ホシノ天然酵母パン種)
1951年(昭和26年)に創業者・星野昌氏が東京都世田谷区に研究所を設立して以来、日本の天然酵母文化を牽引してきた老舗ブランドです。国産小麦、国産減農薬米、麹、水のみで培養されたお米由来の天然酵母で、添加物は一切不使用。麹の甘い香りと深い旨味が特徴です。「ホシノ天然酵母パン種」「ホシノ丹沢酵母パン種」「ホシノ天然酵母フランスパン種」「ホシノ丹沢酵母フランスパン種」「ホシノ小麦粉種(赤)」など、用途に応じた豊富なラインナップを展開しています。丹沢酵母は神奈川県丹沢山塊で採取された酵母を使用しており、すっきりとした風味が特徴です。生種起こしが必要なタイプで、本格的な天然酵母パン・菓子作りに取り組む方に広く支持されています。
白神こだま酵母ドライ(株式会社サラ秋田白神 / 秋田十條化成株式会社)
1997年に小玉健吉工学博士と秋田県総合食品研究センターの共同研究により、世界自然遺産・白神山地のブナ原生林の腐葉土から発見された野生酵母です。約1,200ものサンプルの中から選抜された、一切の添加物を加えない自然のままの酵母で、トレハロースを多く含むため冷凍耐性が高いことでも知られています。発酵力が強く、種起こし不要でぬるま湯に溶かすだけで使えるため、初心者にも扱いやすい製品です。味噌のような力強い香りと、ふんわりやわらかな食感が特徴。
あこ天然培養酵母(有限会社あこ天然酵母)
ホシノ天然酵母の創始者・星野昌氏に25年間師事した「酵母職人」近藤泰弘氏が、日本古来の醸造技術をさらに追究して独自に開発した天然酵母です。2002年に有限会社あこ天然酵母として設立。米と小麦粉を培地に、酵母菌と麹菌を「並行複発酵」(酵母と麹の働きが同時に進行する日本独自の醸造技術)により培養しています。添加物不使用で、クセのないすっきりとした味わいが特徴。「ストロングタイプ」「ライトタイプ」「即日活性種」の3種類を展開しています。
とかち野酵母(日本甜菜製糖株式会社)
北海道十勝の大自然に自生するエゾヤマザクラのさくらんぼから分離された野生酵母です。日本甜菜製糖株式会社(ニッテン)が製品化しました。野生酵母には珍しく高糖生地での発酵力にも優れ、食パンから菓子パンまで幅広く対応できます。予備発酵不要のインスタントタイプと、予備発酵タイプの2種類があり、フルーティーで上品な香りが特徴です。
パネトーネマザー粉末(加藤産業株式会社ほか)
イタリア北部のコモ湖周辺で400年以上受け継がれてきたパネトーネ種の酵母と乳酸菌を粉末化した製品です。家庭でも手軽にパネトーネやパンドーロなどのイタリア伝統菓子を作ることができます。
歴史・由来
天然酵母の歴史は、人類の食文化の歴史そのものと言っても過言ではありません。
酵母を利用した発酵パンの起源は、紀元前4000年〜3000年頃の古代エジプトにまでさかのぼります。小麦栽培の発祥地であるメソポタミアで生まれた無発酵の平焼きパン(現在のピタパンやチャパティの原型)が古代エジプトに伝わり、ある時、放置されたパン生地に空気中の野生酵母が偶然付着して自然発酵し、膨らんだふっくらとしたパンが誕生したとされています。古代エジプト人はこの偶然を製法として確立し、前日の発酵生地の一部を翌日の生地に加える「種継ぎ」の手法で、発酵パンの製造技術を代々受け継ぎました。当時はもちろん酵母の存在そのものは知られておらず、発酵は神秘的な現象として捉えられていました。
酵母という微生物の存在が科学的に確認されたのは、1680年のことです。オランダのアントニ・ファン・レーウェンフックが自作の顕微鏡でビール酵母を観察し、肉眼では見えない微小な生命体を初めて確認しました。しかし、この段階ではまだ発酵と酵母の関係は解明されておらず、古代ギリシャのアリストテレスが唱えた「自然発生説」が支配的でした。
発酵のメカニズムが科学的に解明されたのは、19世紀に入ってからのことです。1857年、フランスの化学者ルイ・パスツールが「発酵は酵母という生きた微生物の生命活動によって引き起こされる」ことを証明し、これが近代発酵学の基礎となりました。パスツールの研究以降、パン作りに適した酵母の純粋培養技術が発展し、19世紀後半から20世紀にかけて工業用のパン酵母(イースト)が大量生産されるようになります。
日本における天然酵母の歴史は、酒造りの文化と密接に結びついています。日本では古来より米と麹を使った醸造技術が発達しており、この技術から派生した「酒種」が製パンに転用されました。1874年(明治7年)、木村屋(現・木村屋總本店)の創業者・木村安兵衛とその次男・木村英三郎が、酒種酵母を使ったあんぱんを考案。翌1875年に明治天皇に献上されたことで広く知られるようになり、日本独自の天然酵母文化の出発点となりました。
近代の日本における天然酵母製品の歴史は、1951年(昭和26年)に星野昌氏がホシノ天然酵母パン種研究所を設立したことに始まります。当時、日本のパン作りは米軍が持ち込んだ商業用イーストが主流でしたが、星野氏は日本古来の醸造技術を応用した天然酵母の研究に取り組み、お米由来の独自の酵母種を開発しました。1990年には有限会社ホシノ天然酵母パン種が設立され、現在に至るまで日本の天然酵母文化をリードし続けています。
1997年には、小玉健吉工学博士が世界自然遺産・白神山地のブナ原生林から約1,200の腐葉土サンプルを採取し、秋田県総合食品研究センターとの共同研究により、製パンに優れた特性を持つ野生酵母を発見しました。1998年にこの酵母は「白神こだま酵母」と命名され、博士の名前にちなんだ「こだま」の名で製品化されました。種起こし不要の手軽さと添加物不使用の安心感から、家庭でのパン・菓子作り愛好家を中心に広く普及しています。
2002年にはホシノ天然酵母の技術を継承した近藤泰弘氏が「有限会社あこ天然酵母」を設立し、「あこ天然培養酵母」の製造・販売を開始しました。日本古来の並行複発酵技術を駆使した独自の酵母は、国内のみならず海外のベーカリーからも注目を集めています。
世界的には、2020年代に入り「サワードウ(Sourdough)」ブームが到来し、天然酵母への関心がかつてないほど高まっています。自宅で天然酵母のスターター(発酵種)を育てるDIY文化がSNSを通じて世界中に拡散し、パンのみならず焼き菓子やピザ、パスタなど多様な食品に天然酵母を活用する動きが広がっています。天然酵母は古代エジプトから6000年以上の時を経て、現代の食文化においてもなお新たな可能性を広げ続けている、まさに「生きた材料」と言えるでしょう。
