材料の名前
日本語では「発酵バター(はっこうばたー)」と呼ばれる。英語では “Cultured Butter”(カルチャード・バター)が最も一般的な表現であり、”Fermented Butter”(ファーメンテッド・バター)とも表記される。フランス語では “Beurre de culture”(ブール・ドゥ・キュルチュール)あるいは単に “Beurre”(ブール)と呼ばれる。フランスではバターといえば発酵バターが標準であるため、あえて「発酵」と区別する必要がないためである。デンマーク語では “Kultursymret smør”(クルトゥアスュムレト・スメア)と呼ばれ、ドイツ語では “Sauerrahmbutter”(ザウアーラームブター)と称される。
特徴
発酵バターは、原料となるクリーム(乳脂肪)に乳酸菌を加えて乳酸発酵させたのちに撹拌(チャーニング)して製造されるバターである。もうひとつの製法として、完成したバターに直接乳酸菌を練り込んで発酵させる方法もある。いずれの製法でも、乳酸発酵によって生まれる独特の風味がこのバターの最大の魅力となっている。
発酵バターの味わいの特徴は、まずその芳醇な香りにある。通常の非発酵バターと比較すると、乳酸発酵によって生成されるジアセチルなどの香気成分が豊富に含まれるため、ミルクの濃厚な風味に加えて、ヨーグルトを思わせる爽やかでほのかな酸味が感じられる。この酸味はけっして強いものではなく、バター全体のコクと深みを引き立てる役割を果たしている。口に含むとクリーミーでなめらかな口どけがあり、舌の上でゆっくりと溶けながら複雑な風味が広がっていく。
非発酵バター(甘性バター)がクセのないストレートなミルク風味であるのに対し、発酵バターは奥行きのある豊かな味わいが際立つ。このため、バターそのものの風味をダイレクトに味わうパンへの塗布や、バターの香りが仕上がりを大きく左右する焼き菓子への使用に特に適している。
なお、発酵バターにも「有塩」と「食塩不使用(無塩)」がある。有塩タイプは食塩の添加によって保存性が高められており、パンに塗るなどそのまま食べる用途に向いている。一方、お菓子作りや料理においては塩分量を精密にコントロールする必要があるため、食塩不使用タイプが適している。
用途
発酵バターの用途は幅広く、製菓・製パン・料理のいずれにおいても活躍する素材である。
お菓子作りにおいては、特にバターの風味が主役となるシンプルな焼き菓子との相性が抜群である。クッキー、サブレ、フィナンシェ、マドレーヌ、パウンドケーキなどに発酵バターを使用すると、焼成後にも芳醇なバターの香りがしっかりと残り、非発酵バターで作った場合よりも格段に深みのある味わいに仕上がる。クロワッサンやデニッシュなど、折り込みバターを大量に使用するヴィエノワズリー(菓子パン類)にも発酵バターは欠かせない存在であり、フランスの一流ブーランジェリーやパティスリーでは発酵バターの使用が標準となっている。
料理においては、ソテーやムニエルなどバターで食材を焼き上げる調理法で、非発酵バターよりも香り高い仕上がりが期待できる。また、ソース作りにおいても発酵バターを用いると、ブールブランやベアルネーズソースなどのバターソースに独特の風味とコクが加わる。
もちろん、最もシンプルな楽しみ方は焼きたてのパンやトーストに塗って食べることである。発酵バター特有の芳醇な香りとほのかな酸味がパンの小麦の風味と調和し、バター本来のおいしさを存分に堪能できる。
主な原産国
発酵バターの主要な生産国は、ヨーロッパを中心に広がっている。
フランスは発酵バターの本場というべき国であり、世界的に最も高品質な発酵バターの産地として知られている。特にノルマンディー地方やポワトゥー・シャラント地方は優れた酪農地帯で、AOPの認証を受けた発酵バターが数多く生産されている。
デンマークもまた酪農王国として知られ、発酵バターの主要な生産国のひとつである。「Lurpak(ルアーパック)」に代表されるように、高品質な発酵バターを世界中に輸出している。
そのほかヨーロッパでは、オランダ、ベルギー、ドイツ、アイルランドなども発酵バターの生産が盛んである。ドイツでは「ザウアーラームブター」と呼ばれる発酵バターが伝統的に製造されてきた。
日本においても、北海道や九州を中心に国産の発酵バターが製造されている。よつ葉乳業、カルピス(アサヒグループ)、南日本酪農協同(高千穂バター)、雪印メグミルク、明治などの大手乳業メーカーが発酵バターを手がけているほか、北海道のトラピスト修道院や山中牧場のような小規模生産者も高い評価を得ている。
選び方とポイント
発酵バターを選ぶ際には、用途や好みに応じていくつかのポイントを押さえておくとよい。
まず、有塩か食塩不使用かの選択が重要である。お菓子作りやパン作りに使用する場合は、塩分量をレシピ通りに管理できる食塩不使用タイプを選ぶのが基本である。一方、パンに塗ってそのまま食べる場合や、仕上げの風味付けに使う場合は、適度な塩味がバターの旨みを引き立てる有塩タイプが適している。フランス産のブルターニュ地方の発酵バターには、「セル・ドゥ・メール(海塩入り)」と呼ばれる粗塩を混ぜ込んだ有塩バターもあり、塩の食感と風味がアクセントとなる。
次に、産地と製法にも注目したい。フランス産のAOP認証バターは、原料乳の産地や製法に厳格な基準が設けられており、品質の高さが保証されている。フランス産は総じてミルクの風味が濃厚で、発酵による酸味と香りのバランスが秀逸である。国産の発酵バターは、フランス産に比べるとやや穏やかで上品な風味のものが多く、繊細な和菓子や日本的な焼き菓子にも馴染みやすいという特長がある。
また、発酵バターは非発酵バターよりも風味の劣化が早い傾向があるため、鮮度も重要な選択基準となる。購入後はしっかりと密封し、冷蔵庫(6℃以下)で保存する。大量に購入した場合は小分けにして冷凍保存することも可能であるが、解凍後は早めに使い切ることが望ましい。
価格帯についても触れておくと、国産の発酵バター(450g)はおおむね1,500〜2,500円程度、フランス産のAOPバター(250g)は1,500〜3,000円程度が一般的な相場である。フランスの高級ブランドバターはさらに高価になる場合もあるが、その分だけ風味の豊かさは格別である。
メジャーな製品とメーカー名
発酵バターの世界には、長い歴史と確かな品質で知られる名門ブランドが数多く存在する。以下に、国内外の代表的な製品とメーカーを紹介する。
フランス産
エシレ(ÉCHIRÉ)
フランス中西部ポワトゥー・シャラント地方のエシレ村で1894年から製造されている発酵バターである。1900年のパリ万国博覧会で1等賞を受賞し、1979年にはフランスのバターとして初めてAOC(原産地呼称統制。現在のAOP)を取得した。クリーミーな口あたりと芳醇な香りが特長で、世界中の三ツ星シェフや一流パティシエに愛されている。日本では片岡物産が輸入・販売しており、東京・丸の内には専門店「エシレ・メゾン デュ ブール」が展開されている。
イズニー(Isigny Sainte-Mère)
ノルマンディー地方イズニー・シュル・メールで生産されるAOP認証の発酵バターである。搾乳後24〜72時間以内の新鮮なミルクのみを使用するこだわりの製法で知られ、クリーミーで豊かなミルクの風味が際立つ。
レスキュール(Lescure)
エシレと同じポワトゥー・シャラント地方で生産されるAOP発酵バターで、独特のヘーゼルナッツのような香りと安定した味わいが特徴とされる。フランスの三大発酵バターのひとつに数えられることが多い。
グランフェルマージュ(Grand Fermage)
「セル・ドゥ・メール」は、大西洋の粗塩であるゲランドの塩を練り込んだ有塩発酵バターで、塩の粒の食感とバターの風味の組み合わせが人気を博している。
デンマーク産
ルアーパック(Lurpak)
1901年にデンマークの酪農家の協同組合によって登録されたブランドで、100年以上の歴史を持つ。銀色の包装紙が特徴的で、世界75か国以上で販売されている。デンマーク産の良質なミルクを原料に、ほのかな酸味と重厚な風味を持つ発酵バターを製造している。現在はArla Foods(アーラ・フーズ)が製造・販売を手がけている。
日本産
カルピス(特選)発酵バター
アサヒグループの乳酸菌飲料「カルピス」の製造過程で分離される良質な乳脂肪を原料とした発酵バターである。爽やかな風味となめらかな口どけが特徴で、プロのパティシエやシェフにも広く愛用されている。もともと業務用として流通していたが、その品質の高さから一般市場でも人気が高い。
よつ葉 発酵バター
北海道の酪農家から集められた新鮮な生乳を原料に、よつ葉乳業が製造する発酵バターである。ミルクの優しい風味に加え、発酵バター特有のヨーグルトのようなすっきりとした爽やかな後味が特長とされている。
高千穂発酵バター
南日本酪農協同が九州産の生乳を使用し、ヨーロッパの伝統的な製法で製造する発酵バターである。芳醇な香りとコクがありながらコストパフォーマンスに優れ、製菓・製パンの現場で広く使用されている。
トラピストバター
北海道北斗市の厳律シトー会(トラピスト修道院)の製酪工場で1897年頃から手作業で製造されている発酵バターである。修道院での伝統的な製法を守り続けており、深いコクと独特の風味が高く評価されている。
歴史・由来
発酵バターの歴史は、バターそのものの歴史とほぼ重なる。バターの起源は正確にはわかっていないが、紀元前数千年にまで遡ると考えられている。古代メソポタミアや古代エジプトでは、家畜の乳を革袋に入れて振ることでバターを作っていたとされ、古代ギリシャ時代(紀元前5世紀頃)にはバターが化粧品や薬品として利用されていたことが文献に記録されている。
重要なのは、これらの古代のバターはすべて「発酵バター」であったという点である。当時は冷蔵技術も殺菌技術も存在しなかったため、搾乳した生乳を集めてクリームを分離する過程で、空気中や容器に棲みつく乳酸菌によって自然と乳酸発酵が進行した。つまり、人類が最初に口にしたバターは、意図せずして発酵バターだったのである。
ヨーロッパでは中世以降もこの伝統が連綿と受け継がれた。特にフランス、デンマーク、オランダなど北西ヨーロッパの酪農地帯では、複数回の搾乳分のクリームを貯めてからバターを作る慣行があったため、撹拌するまでの間に自然発酵が進む製法が定着していった。やがてこの「発酵した風味」こそがバターの美味しさの核心であると認識されるようになり、19世紀に入って近代的な酪農技術が発展すると、良質な乳酸菌を意図的にクリームに添加して発酵をコントロールする現在の製法が確立された。
一方、19世紀後半以降に近代的な酪農技術とともにバターを導入した日本やアメリカ、オーストラリアなどの国々では、殺菌したクリームをそのまま撹拌して作る「非発酵バター(甘性バター)」が普及した。冷蔵・殺菌技術が発達した環境では、あえて発酵工程を経る必要がなかったためである。このため、日本では長らく非発酵バターが「バター」の標準であり、発酵バターは馴染みの薄い存在であった。
日本における発酵バターの歴史は、北海道北斗市のトラピスト修道院に始まる。1897年頃からフランスの修道院の伝統を受け継いだ製法で発酵バターの製造が始められ、これが日本における発酵バター製造の先駆けとなった。
近年、食の多様化やグルメ志向の高まりを背景に、日本でも発酵バターへの関心が急速に高まっている。フランス産のエシレバターをはじめとする高品質な輸入発酵バターが百貨店や専門店で手軽に入手できるようになったほか、国内の大手乳業メーカーも相次いで発酵バター製品を発売し、スーパーマーケットの店頭にも並ぶようになった。また、発酵バターを使用した焼き菓子やスイーツが「発酵バター入り」を謳って商品展開されるケースも増えており、発酵バターは今や日本の食文化にもしっかりと根づきつつある。
